決断
達也と付き合い始めて一年ちょっと…祥子は何でも達也の言いなりだった。
着る物も髪型も達也の好みに合わせで変えたし
金銭的にも言われるままに、祥子は給料の大半を達也に使っていた。
知り合った頃は長かった髪を、達也の「思いきり切ってこいよ」と言うひとことで、
その足で美容院に行き、ばっさりとショートにして来た祥子は、満足そうでもあったが
「あんたさ、利用されてるだけなんだよ、もういい加減に目を覚ましなよ」
祥子と達也の関係を良く知っている友達はそう言っていた。達也の友達さえも
「祥子ちゃん、あいつは止めた方がいいよ」
とこっそり言ってくる人もいた。それでも祥子は達也と別れなかった。
良く言えば『献身的』に達也に尽くし、身も心も捧げているといった様子だった。
祥子にそこまでさせておきながら、
とうの達也はろくに仕事もせずに遊びまわり、気が向くと祥子を呼び付け
好き勝手な事を言っては楽しんでいる様子だった。
「ほんと、あいつは最低の男だよ、あれじゃヒモだよ」
飲みに行った時に、酔いも手伝ってか、祥子の親友の真由子がそう言うと
祥子は少しだけ哀しそうに笑ってこう答えた。
「あの人は私がいないとダメになっちゃうから…」
その言葉に真由子は次の言葉が出てこなくなってしまった。
祥子がいつものように、達也のマンションに行き
掃除をしたり、食事の支度をしている時だった。
ベッドでゴロゴロと寝ていた達也が祥子を呼び、服を脱ぐように言った。
祥子はやりかけていた事をそのままにし、すぐにその命令に応じた。
「今、掃除してるから…」
などと言っては、達也の機嫌が悪くなってしまう事が
今までの経験から痛いほど判っていたからだった。
そのままベッドに横になり、気まぐれと知りつつも、
達也に抱いて貰える喜びに浸りはじめた頃…達也の手の動きがふと止まった。
「どうしたの?」
目を開けて、そっと様子を伺うように祥子が達也を見上げると
達也は思いついたようににやりと笑った。そして祥子の髪を触りはじめた…。
「なあ、いつも同じパターンじゃ飽きるんだよ」
祥子は、いきなり行為を止められ、達也が何を言いたいのか判らなかった。
「お前、尼さんになれよ」
「ど、どう言う事…?」
「俺一度でイイから尼さんみたいな坊主の女とやってみたいんだよな
だからさ、今から床屋に行って、この髪刈ってこいよ。」
さすがの祥子も、今達也が言った事が信じられなかった。
「う、うそでしょう?」
声が震える…まさか達也がそんな事を言い出すなんて…
でも達也はニヤニヤ笑いながら「本気だぜ」と言っているだけだった。
「してこいよ、そしたら思いきり抱いてやるぜ」
そう言って、もう一度祥子の髪をぐっと握って言った。
(いや…坊主になんかしたくない…)
祥子はそう思いつつも、達也の顔を見ているとそんな事は言えなくなってしまった。
「イイか、今すぐやって来い、くりくりの尼さんみたいにして来るんだぞ」
達也はそう言うと、早く行け、と言わんばかりに祥子の身体を押した。
さっき慌てて脱いだ服を身に着けると、祥子はカバンを持った。
「楽しみにしてるから、すぐ行ってこいよ」
達也はそんな祥子の様子を見ながら相変わらずニヤニヤと笑っている。
打ちのめされたような気持ちで祥子は部屋を出て行った。
マンションを出て、表通りに足を向けながら、
祥子は今にも泣きたいような気持ちだった。
(いくらなんでも… でも…)
トボトボと歩きながら、でも祥子の足は確実に、商店街のある一軒の店に向かっていた。
(あの人に尽くす事が私の幸せなんだ…)
祥子は誰に言うでもなく、ただ自分にそう言い聞かせながらその店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
ドアが開いて、入って来たのは若い女性だった事に少なからず驚いたものの
反射的にその店の店主は声を掛けた。
店の中は空いていて、幸い客の姿は見えなかった。
「どうぞ…お顔剃りか何かですか?」
店主の40代くらいの男が、そう聞いて来た。
「あ、あの…」
いきなり何て答えたらイイか判らずに、祥子は口篭もった。
「何でしょう?」
「あの…カットを…」
いきなり『丸坊主にして下さい』とはとても言えなかった。
祥子の様子を見て、店主は多少いぶかしげな顔をしたが『じゃあ、こちらに』と
3つ並んだ椅子の真中を指して座るように促した。
言われたままに、その椅子に恐る恐る腰を掛ける祥子…
(この椅子に座ったら、本当にされてしまうんだ)
祥子はそんな事を考えていた。
店主が真っ白いカットクロスを持ってきて、祥子の首に巻き付けた。
「どんな感じにしますか?揃えておきましょうか?」
祥子の少し伸びたショートの髪を手早く湿らせ、くしで梳かしながら聞いた。
鏡越しに、祥子の口が開くのを待っているように顔をのぞき込む…
「丸坊主にして下さい…」
蚊の鳴くような声だった。もちろん店主には聞き取れなかった。
「はい?何て言いました?」
口元に耳を寄せるような仕草で、もう一度聞きなおして来た。
「丸坊主に…しちゃってください」
もう逃げられない、そう思った祥子はもう一度そう言った、言ってしまった。
「丸坊主ですって?お嬢さん、冗談言っては困りますよ」
店主は笑い飛ばそうとしたが、祥子の真面目な、思い詰めたような顔を見て
笑いかけた口を閉じた。しばらく沈黙が流れたが、その後は
店主と祥子の押し問答が続いた。
「どんな事情があるか知りませんが、後悔しますよ」
店主にそう言われても、祥子は『はい、そうですか』と引っ込める訳にもいかない。
「お願いします、お願いします」
と言い続けるしかなかった。それでも店主はなかなか首を縦には振らない。
そんな事を繰り返していた二人の間に奥から出てきた女性が割って入った。
「いいじゃない、あんた。その子の言う通りやってあげなさいよ」
たぶん店主の奥さんだろう、顎ラインのボブにした黒髪がさらさらと揺れている。
「やってあげなって、お前…」
店主は更にオロオロした様子になって今度は自分の奥さんに向かって言った。
「坊主にして欲しいだなんて、余程の事情があるんだろうよ。
だったら、ごちゃごちゃ言わずにやってあげた方がその子の為ってもんだよ」
店主より若く見えるが、口調や態度はまるで落ち付いた貫禄があった。
「でもいくらなんでも…」
それでもまだ納得しない様子の店主を押しのけるように、
その女性は祥子の後ろに立った。そして鏡越しに祥子の目を見据えて聞いた。
「本当にいいんだね、丸坊主にしちゃっても」
ココで自分が『ハイ』と言ったら、間違いなく丸坊主になってしまう…
そう思いながらも、祥子はコクンと頷いてしまった。
「わかった、じゃあ、やるよ」
「お、おい…雅恵…」
店主はそんな二人の様子を見ながら、まだ引き止めるように声を掛けたが
その雅恵と言われた女性は『イイよ、わたしがやるから』と
後ろの棚から、大きな黒いバリカンを持って来てしまった。
椅子のコンセントにコードを繋ぐと、
「長さは、どうするの?」
と、ややぶっきらぼうに祥子に聞いた。
「あの…尼さんみたいに…して来いって…」
祥子は自分が言った言葉も、その言葉に雅恵がわずかに反応した事にも
気がつかないほど緊張していた。
「判った、じゃあ、とりあえず一番短いバリカンで刈るから」
雅恵はそう言うと、バリカンの刃先を調節し、いきなりスイッチを入れた。
ビィ…ンと音を立てて動き出したバリカンを、
祥子の目の前に突き出すようにして雅恵は構えた。
「覚悟が決まるように、前からいくからね」
そう言うと、祥子の前髪が持ち上げられ、そこにバリカンが近づいて来た。
『ジジジ…』
「ひっ…」
バリカンが祥子の額の真ん中に食い込むのと、祥子が泣きそうな声を出したのは同時だった。
『バサバサバサ…』
雅恵の持ったバリカンは、額からそのままつむじの方に向けて真っ直ぐに進んでいき
ばっさりと髪を根元から刈り落とした。その刈られた髪が目の前を通り膝の上に溜まった。
「うっ…」
あまりの衝撃に祥子は目を閉じ、唇を噛んだ。閉じた目からは涙が溢れそうだった。
「しっかり見てなよ、あんたが自分でやると言ったんだよ」
雅恵の想像もつかなかったキツイ言葉に、祥子は驚いて目を開けた。
その瞬間、鏡の中の自分が目に飛び込んで来た。
前髪からずっと一直線に後ろに向かって、トップの髪がなくなって道が出来ている。
その横の髪はまったく変わらずにあるのに、
その刈られた部分は地肌が青白く見えるほどに髪がほとんどなくなっている。
「もっとだよ、全部、こうなるんだからね」
雅恵は相変わらずのぶっきらぼうな口調でそう言うと、
さっき刈った所の隣にバリカンを当て、また後ろへと進めていった。
髪がバサバサと落ち、その部分の髪が刈り落とされていく。
その繰り返しで、祥子のトップの髪は瞬く間になくなっていった。
(もう…このまま坊主になるしかない…)
祥子は鏡の中の自分を見てそう思っていた。
「じゃあ、次は横ね」
雅恵はそう言うと横の髪をすくいあげるようにバリカンを潜らせ
呆気ないほどあっさりと横の髪を刈っていった。
もみあげからこめかみの方に進み、やがて刈り落とされたトップとつながった。
今度は耳の上からまた上に向かって…
バリカンは勢いを増したかのように、『ガーッ』とも聞こえる音で
どんどん髪を刈り落としていく…その度に祥子の髪が落ちていき
床はもうその落とされた髪で山になっている。
「ハイ、下向いて…」
横を刈ってしまうと、雅恵はそのまま後ろに回り込み、祥子の頭を軽く押した。
下を向き、わずかに見えた首筋にバリカンが当たり、
祥子はビクンと身体を震わせた。もうトップも右サイドもすっかり刈られ
後は丸坊主になるしかないのに、後ろの髪が刈られてしまう、と思うと
今更ながら、また恥ずかしいような、逃げ出したいような衝動に駆られる。
バリカンは首からそのまま一気に後頭部を這い上がり
後ろの髪をつむじまで刈り上げていく。そして下まで戻すとまたその隣…
髪が落ちていく音が、祥子の耳にもはっきりと聞こえていた。
刈った部分に、どこからか入って来る風が当たってひんやりする。
時々刈り残しがあるのか、雅恵は刈った部分にもう一度丁寧にバリカンを当て
すべての髪をすっかり刈り落としていった。
「さ、もう少しだからね」
(もう少し…もう少しですべての髪が刈り取られてしまうんだ…)
祥子は髪のほとんどを刈られてしまったその時でも、まだ複雑な気持ちでいた。
左側の耳の横も上も青々と刈り上げられ、やがてバリカンが止まった。
「はい、出来たよ」
顔に付いた細かい髪をタオルで払いながら雅恵が声を掛けていた。
はっとしたように、祥子が顔を上げると、鏡には変わり果てた自分の姿があった。
(これが…これが私なの?)
もともとそんなに長かった訳じゃない、
切った長さにすれば10センチくらいかもしれないけれど、
その自分の変わりように呆然とするばかりだった。
さっき、溢れかけた涙が、またじわっと湧いて来そうだった。
そんな感傷的になっている祥子に、雅恵が事も無げに言った。
「どうするの?このままでいいの?それとも全部剃ってスキンヘッドにするの?」
スキンヘッド…ホンの一時間前には、そんな言葉を自分に投げ掛けられるなんて
夢にも思っていなかったのに…
でも達也は『尼さんみたいにしてこい』って言っていたし…
「ハイ、お願いします」
祥子がそう言うと、雅恵は頷き、支度をしに棚の陰に入って行った。
ずっとその様子を側で見ていた店主が、気の毒そうに、作り笑顔で
「似合うねぇ」
と声を掛けてきた。雅恵が行ってしまって、
ひとりぼっちになってしまった祥子が可哀想に見えたのかもしれない。
「すぐに伸びるから…」
慰めだか、励ましだか、言ってる店主本人も、言われている祥子にも判らなかった。
やがて戻って来た雅恵は、先程と同じようにてきぱきと手を動かし
頭に蒸しタオルが当てられ、温かいな、ちょっと熱いかな、と
祥子がぼーっとなっているうちに気がついたら、今度はシェービングクリームが塗られ、
その次には剃刀が祥子の頭の上を動き、わずかに残る髪を剃りはじめていた。
『ジョリ…ジョリ…』
今まで味わった事のない感覚に、祥子は戸惑っていた。
(頭を剃刀で剃られている…)
その事だけを考えていた祥子に、雅恵が手を動かしつつ話し掛けた。
「あなたさ…今の自分を良く見ておきなさいよ…」
(今の自分…?)
小さな床屋で髪を刈られて、その上剃刀で頭を剃られている自分が
はっきりと鏡に映っている。祥子はただ言われるままに見ていた。
「この状態を望んだのは誰なの?事情は知らないけど…聞く気もないけど…
少なくとも、私はあなたが『あなたの意志』でやってると思いたいね」
雅恵の手は休みなく動き、その間も『ジョリ…ジョリ…』と剃刀の動く音が続いていた。
『あなたの意志』…同時に祥子の頭には、雅恵の言ったその言葉が響いていた。
(私は…私は達也に言われたから…達也に言われたから言われるままに…)
剃刀の音、頭を剃られている感覚、雅恵の言った言葉、そして達也…
祥子の頭の中でいろいろな想いがぐるぐる回り続けていた。
そして…
すべての髪を剃り終え、もう一度熱いタオルで頭を拭われた後の爽快感
その感覚と共に、祥子の頭の中には、あるひとつの『決断』が芽生えていた。
「目が輝き出したね、もう大丈夫だ」
会計を済ませた後、雅恵は祥子に、そうつぶやいた。
その言葉に背中を押されるように、祥子は店を出た。
信じられないくらい外の風が頭に突き刺さる気がする。
そして日の暮れ掛けた商店街を、剃りたての頭で歩く祥子に
周囲の人は好奇の視線を送っていた。それでも祥子は真っ直ぐに歩いていた。
数分程で達也のマンションに着き、エレベーターで彼の待つ部屋へ急ぐ…
「ただいま…」
玄関を入っても達也の出迎えはなかった。そのまま奥へと進む。
出て行った時と同じように、ベッドに横になっていた達也が
祥子の姿を見ると、さすがに飛び起きた。
「してきたわよ」
達也は、変わり果てた祥子を見つめ『くっ…』と笑った。
「お前、まじでしてきたのかよ?」
バカにしたような声でそう言いながら、それでも『こっちへ来い』と
そんな仕草を見せた。
「約束通り、ほんとにして来たから、じゃあ抱いてやるよ」
甘ったるい声でそう言った達也を、祥子はまるで知らない男を見るような目で見つめていた。
(この男は誰?こんな男、私知らない)
「何してるんだよ、抱いて欲しいんだろ?」
祥子がすぐに動かないので、達也の声がちょっと苛ついたような声に変わる。
「誰があんたなんかに…」
思わずそんな言葉が口からもれた。
「何だって?」
達也がそれを聞き返す。最初のひとことに、まるで糸が付いていたかのように
次から次へと言葉が溢れ出て来た。
「誰があんたなんかに抱かれるもんか!あんたみたいな男にはもう二度と触れさせない。
私は私の意志で決めたんだ。あなたとは二度と関わらない、これで終わりよ」
一気に捲し立てた祥子が黙ると、今度は達也の番だった。
でも、ふざけるな、とか、許さない、としどろもどろになりながら
それでも凄んでいる達也を見て、祥子は大笑いしてしまいそうだった。
(今まで、なんでこんな男の言いなりになっていたんだろう、
こんな男のどこが良かったんだろう)
自分を笑い飛ばしたかった、そして怒りと驚きで顔を真っ赤にしている達也を
笑い飛ばしたかった。バカな男…そのバカな男に惚れていると思っていたバカな自分。
「さようなら、お元気で…」
わざと丁寧に言うと、祥子はそのまま部屋を飛び出し玄関に向かった。
達也が追いかけてくるような気がしたが、気にせずそのまま玄関を出て行った。
『もう大丈夫だ』
さっき、店を出る時に、雅恵に言われた言葉が、ココでも背中を押してくれた気がする
「でも、こうやって歩いているのは自分の足だもん」
薄暗くなった街を、祥子はまるでスキップでもするかのように
楽しそうに歩いて行った。